意識をかえるのなど一瞬だ。ただ膨大にあるだけだ(笑)

タイトルどおりだ。

意識をかえるなど一瞬だ。

でも、人は、その一瞬を立ち止まろうとしない。

なぜなら、その枠組みからでる選択をそもそもしていなかったり、そこにいるのが心地よいからだ。


ある意識を手放したいと思ったら、立ち止まり、一瞬、なにを自分は思っているんだろう。とみてみればよいのだ。

そして、「ああ、そう思っているんだね。」とみとめてあげればよい。その正体をみてあげればよいのだ。


そのためのツールは、山ほど書店に並んでいるではないか。インターネット上でも。

ただそれらが害になるとするとすれば、それらを提案している人、や組織に従属してしまったときだけだ。

自分にとって有用であったらば試してみればよい。

自分にとってひっかかるものならば「ちょっとやってみよう。」ってちょっとやる気になるものだ。

そして、そうなったらしばらく継続してみよう。継続せずに、判断をするのは、やりたくない、抜けたくない。に等しい。


セッションでは、その人にあったものを提案してはいるが、それをするかしないかは、私はどっちでもよい。と思っている。

なぜならば、やると決めるのはその本人で、やると決めたら、やっぱり継続が必要で、そのエネルギーをねん出するのはその人だからだ。

厳しいが、ここは自由な世界なのだ。個人の意志がすべてだ。


ただ、問題は、「私は変わりたい、」と思っているのに、変わるための諸所のことができない、ということはありうる。

それは、潜在意識下で、変われない、という要素が変わりたいよりも大きな割合で存在しているからなので、それらに対しての対処法やら実際にとりさる、ということはできるだろう。


人間の意識のプログラムはとてもおもしろく、ユニークでありながら共通のものも多くある。


それらがわかってくれば、意識をかえていくのは楽しい作業となるだろう。

意識をかえると、現実が変わってくるし。検証しながら進めるのも楽しい。

こんな時代でもあんな時代でも、ない

たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える

ルターの名言ですが、

私は最近まで、明日世界が滅亡しようとも、今日私はりんごを収穫する、(で、パイでもつくろうか。)

と思っていました。

というのはどうでもよくて、今がどんな世界であっても、これから先はあんな時代でも

私は私、で私でいるしかありません。

そのため、右往左往しても、ぼーぜんとしても、逆立ちしても、私は私で明日を迎えます。

世界は明日滅びるかもしれない。でも、私は私の思いをしり、本質の自分に向かうことに喜びをみいだしたい。

というか、自分自身の本当のところ「ふにおちる」というところがわかれば、安堵とか喜びって自動的にふわっとでてきます。

苦しさの先にあるのが、絶望、や、究極の肉体的苦痛は、この世界にいる以上体験するかもしれないけど、体験しないかもしれない。

それはやってきちゃうかもしれない。

でもそれに縛られて、今、そうでない瞬間を絶望でうめているのならば、その絶望と今向かい合い、手放すことはできます。

一回、手放すことができれば、手順は同じで、手放すことはできていくものです。

いつも自分でいることができれば、発見と気づきの連続です。

世の中に、身震いするほどの苦痛はありますが、それがすべてをおおっているわけではないのです。

自分が感じている恐怖が、一体なんなのか、今それがおきていない以上、その恐怖を感じさせているものがなんなのか、自分に問いかけてみればよいのです。

私は、どんなときも、私でいるしかないのです。
posted by maya at 09:57Comment(0)日記

演目(叡智)をしること と実際にダンスすることは異なる 2

前の続きで、実際にダンスすること、は実際のダンスでもたやすくはない。

一般的には、反復練習が最初で、その動作が身につき、多少自由に動けるようになって人に認めてもらえて、演目で発表会までひらける。

というと、結構な時間数をかけているだろう。


ただ、そこまでを苦痛と感じる理由として大きくは

1、なにかをできることになるまでは、苦労しなくてはいけない。
  もしくは、苦労しなくては、何事も成し遂げられない。

2、決められたプロセスを通さなくては、達成できない。ジャンプできない。

3、一般的な成功の型は、決められている。一般的な型の成功が成功だ。


というような思い込みを抱えている、というところにある。

他者(外側の世界)との比較は、大きな苦痛と喜びの両方を兼ね備えている。
喜びの一寸先は地獄だったりすることもよく経験するだろう。


それら思い込みがなければ随分と道程は変わるのだろうが、
ただ、反復練習、にあたるものは苦痛をともなうものもやはりあって、それに一つの壁、つまり次の領域へ大きくジャンプするときには怖さやら心配やらが大きく覆いかぶさってくるものだ。

何回かは超えても、途中でやっぱりもうやめました。ここらへんでいいです。という人も多い。

というか、そこで時間がかかる人は多い。

よく宗教で「信仰がとわれる」という言い方で示すのは、ここらへんのことだ。

一つの大きな認識のかたまりが崩壊していくときは「怖さ」という感覚を伴うので、そういう言い方をするのだが、(その言葉を利用して、人の自主独立をうばってしまうような人たちもいなくはない。というか多いかもしれない。無意識のうちに。もしくはそうではないと思いながら「善意」にてそのように使ってしまう人もいるだろう。)


つまり、怖さをこえて、自分自身により忠実、になっていく。自分の中心に飛び込むことなんだけど、だから、自分に飛び込むから怖さと比較して大きな変化は大抵なくって、清水の舞台から飛び降りるつもりで飛び降りたら、15cmくらいの段差程度だった、ということもよくある。

怖さの原因は、これまで基準としていたものをいったん手放さなくてはならないから、なんだけど。

その時に、手を引いてくれる言葉、や、先人の叡智、があったらありがたいよね。それをいったん信じてみればいいかも。ということだ。
手を引いてくれる人がいれば、もっとラッキー。(それでも怖さはあるだろうけど。)


私の最終のところは、自分自身の究極の回帰をこえて、そしてそれをこえてさらに見続けていくこと。が喜びだ。
私自身であること、には終わりはないのだからね。





posted by maya at 09:38Comment(0)日記